9月9、10の両日、都立富士高等学校及び都立富士高等学校附属中学校の文化祭「富士祭」が開かれ、9日の午前中には、4回目となった若竹会主催の「富士祭ツアー」が催された。初回の富士祭はガイド兼カメラマンという「主催者」側で参加したが、今回は一参加者として、富士祭ツアーを思い切り楽しんだ。2020年の創立100周年に合わせ、募金活動がすでにスタート。「大人の文化祭」や「記念誌」編集、保存資料のアーカイブ化などの準備も進んでいるが、後輩の中高生たちの活動を間近で見て、改めて「同窓会活動の原点は、学校現場にある」と感じた。(高校27回卒・相川浩之)

 富士祭ツアーは上野勝敏校長はじめ、先生方の全面協力で4回目を迎えることができた。校長室に午前10時に集合、「最近の富士」についてお話を伺った。
 まずは理数アカデミー校指定に伴う、ユニークな活動について説明していただいた。
 理数アカデミー校とは、「中高6年間一貫した教育を通して、科学的に探究する能力や態度、課題を解決する能力、論理的思考力、科学的な感性・創造性を育成する学校」(東京都教育委員会)だ。
 都立富士高等学校、都立富士高等学校附属中学校が昨年4月に指定された。
 
 理数アカデミーの取り組みの中核となっているのが、富士独自の「探究未来学」だ。中学3年生から始まる個人研究で、自分で課題を設定する。
 上野校長は「答えは見つからないかもしれないが、それも大事」と話す。
 中学生の段階から、世の中、ほとんどは答えは一つではなく、答えが見つからないこともある、ということを身をもって体験するのは素晴らしいと思った。
 9月27日には中間発表があるという。

 中学3年生の3月に予定されるシリコンバレー研修旅行に先駆けて、今年4月、「アメリカ講座」を始めた。シリコンバレー研修は希望制だが、事前研修はだれでも参加できるという。
 上野校長は「絶えず挑戦するというマインド、思考法、発想法を中学1年から学んでもらいたい」と語る。
 こんな教育は、僕自身が受けてみたかった。
 富士の合言葉は「good try!」だという。
 人の失敗を見て、「やっちゃったのね」という文化がいまだに企業にも残っているが、「よく挑んだ」と言い合える文化を醸成するというのだ。

 参加者から、東京都スポーツ強化指定校について質問も出た。
 東京都教育委員会のホームページによると、「2020年オリンピック・パラリンピック競技大会の東京都開催を契機とし、スポーツの全国大会や関東大会への出場を目指す都立高校を増加させていくため、競技力の高い運動部活動のある学校を『スポーツ特別強化校』に指定した」という。
 富士は、陸上競技部(男女)、薙刀部、剣道部(男女)が指定されている。
 
 運動部だけでなく、管弦楽部、合唱部、茶道部などはみな都の代表クラス。
 「文武両道」と言われた富士だが、我々が高校生活を送った1970年代よりも、それを体現しているのではないかと感じた。 

 そんな説明を伺った後なので、管弦楽部の演奏、薙刀部の演技、茶道部のおもてなしーーというメニューに期待が膨らんだ。

 最初は、管弦楽部の演奏を聴く。視聴覚室での演奏なので、パートごとに次々に短めの親しみのある曲を演奏してくれた。
 「回らないお寿司」といった口上で始まったトロンボーンのパートの演奏。「中トロ」と「トロンボーン」をかけたのだな(笑)。
 演奏は、素晴らしいものから、発展途上のものまで、様々だったが、そんな演奏を聴きながら「現役の中高生と我々は繋がっていて、いまがあるから、同窓会も楽しいんだな。来て良かった」という考えが頭を巡った。

 実は、ここまでは、ほんとうにお客のようにリポートなどせずに楽しもうと思っていたのだが、この体験はぜひ、まだ、中高一貫校になった富士を知らない卒業生たちに味わってもらいたいと強く思い、急にカメラを取り出し、リポートの準部を始めた。だから、申し訳ないのだが、管弦楽部の演奏の写真はこの1枚だけなのだ。



 薙刀部は、薙刀の様々の魅力を紹介してくれた。
 9月22日公開される映画「あさひなぐ」は、富士高校の薙刀部がモデルだ。
 映画になるような魅力が、ここにはあった!



 まずは、様々な「構え」を教えてくれた。


 
 続いて演技競技。



 そして、試合。精神世界を重視する型の世界から、激しい戦いの世界へと場面が転換する。

 最後がリズム薙刀だ。これは音楽がないとだめなので、動画で撮った。
 最初は中学生の演技だったが、音楽が途中で途切れ、高校生の演技の後にやり直しの演技となった。音楽は相変わらず不調で、中学生の演技は最初、ぎこちなかったが、次第に乗ってきた。

 

 高校生のリズム薙刀

 

 中学生のリズム薙刀



 中高生合同のリズム薙刀

 興奮さめやらぬ中、次は茶道部。一気に静寂の空間へ。



 4年前は顔を写さないようにと気を使ったが、今回はご両親の了解も得ているというので、正面から。
 こちらから見て右手の釜は「富士釜」


 
 水飴ときな粉を練り合わせたお菓子を乗せた懐紙には富士のマークが。以前学生証に刻印していた道具を譲り受け、部員が手で押して作っているという。


 
 正客には富士のデザインのお茶碗で。

 富士づくしも楽しかったが、抹茶を運んでくださる部員の方もみな作法がしっかりしていて、最高のおもてなしでした。
 ありがとうございました。

 富士祭ツアーはまた来年も開催。定員は15人。まだ、新しい富士高校を知らない皆様、ぜひ、来年は、参加してください。
 昭和37年(高校14回)卒業の私たちの同期会は1987年第一回同期会を開き、その後はオリンピック開催年に開催してきました。2015年からは毎年新宿御苑で開催、今年はその3回目、1回目から数えて11回目になります。

 新宿御苑での3回目の同期会は5月9日(水)予定通り開催しました。当日は暑くもなく、寒くもなく、曇り空の一日。屋外での園遊同期会には絶好の一日になりました。

 新宿門に12時集合。出席者はこれまででは最も多い48名。

 新緑豊かな新宿御苑に三々五々集まった同期生は、それぞれ持参の敷物を広げ円陣を作り、お弁当を広げてのランチタイム。

 昼食後は恒例になったビンゴゲーム。昼食を摂りながら白紙のカードに参加者に名前を書いてもらったカードを元にゲーム開始。今年は賞品は10位まで。かなり豪華な商品が用意されました。10位以下も、メンバーの一人が用意した立派なお揃いのバッグが参加賞として贈られました。

 ビンゴゲームの後は5つのグループに分かれおしゃべりタイム。どのグループもタイムリーな話題で盛り上がりました。

 午後3時、私たちの園遊同期会は散会。二次会会場の新宿高島屋に移動。
気持ちと時間のある人々は三次会、四次会まで続きました。
 来年も新宿御苑での同期会を約した和気藹々の同期会でした。

(昭和37年卒 柴田貴美子)


集合写真


お弁当風景


グループでのおしゃべりタイム
 今年の夏、富士高校の卒業生で多摩美術大学出身でもあるお二人が、偶然、東京・銀座の目と鼻の先で、それぞれ個展を開催した。23回卒の野田收さんがACギャラリー(中央区銀座5−5−9阿部ビル4F)で6月25日から30日まで開いたのが「野田收ガラスワーク」。32回卒の山口みちよさんが松屋銀座(中央区銀座3−6−1)7階遊びのギャラリーで6月22日から28日まで行ったのが「山口みちよ鍛金展」。一足早く個展を終えた山口さんに、野田さんの個展会場までお越しいただき、お二人にお話を伺った。(聞き手・27回卒、落合惠子、記事構成&写真・27回卒、相川浩之)



ーーお二人は、どんなことを思われながら、作品を作られるのですか。
野田 ドキドキ、そわそわ、こうしたらどんなふうになるんだろうか、と思いながら新島ガラスを使って作品を作っています。もちろん、先輩諸氏からいろいろな技法は学んでいるのですが、自分でもいろいろ試してみるのが楽しいし、それがあるから集中して仕事ができるんだと思います。



山口 野田さんはガラスで自由な創作をなさっているのですね。
 金工の場合は、ある程度計画的に仕事を進めなければならない部分があります。素材が硬くて、なかなかいうこときかないので、手順を追って積みかさねる形で作業をしています。
 最初に、何をつくるかを考え、スケッチをしたりモデルを作ったりする段階では、わくわくドキドキなのですが、作っている最中は、一歩一歩進んでいる感じです。もちろん、作品ができあがる瞬間はうれしいですけれど。



ーーお二人の作品は、「置いておく」ものではなくて、手に触れたり、使ったりするものだと思います。お二人の作品を拝見していたら、「使って、使って」と呼びかけられている感じがしたんです。



野田 生活の中で使ってもらえたらいいなと思います。作品を見て、自分なりの使い方を発見し、毎日、直接触れて道具として使っていただけるとうれしいです。
山口 金工も同じで、花入れでも花が入って完成するような器を目指しています。
野田 “完成形”にしてしまうと収まりはいいかもしれないけれど、訴えかけるものがなくなってつまらない。
 どこか足りない感じがいいと思います。
 あとは使う方が付け加えていくーー。



ーー“自分”を押し出しすぎるとダメだということですか。
野田 若いころは自分を押し出していました。
山口 そうですね。これでもか、と表現していましたね。
野田 でも、今は、完全な形というより、使われる方によって、成長していくものであってほしいと思います。
山口 私がやりたかったのは彫刻ではなく、工芸の世界なんです。工芸は使い手がいます。



野田 彫刻は、距離おいて全体をみるものだと思いますが、工芸品は直接手に触れられる。目だけでなく、皮膚感覚も使って、全体で感じるものです。使ってもらってよかったといわれるとうれしいです。
 けれども器として使う部分以外のところで、自分の思い入れ、わがままを入れる。
 彫刻的なものと工芸的なものとのせめぎ合いがあるんですね。

ーー茶道の世界では、お茶碗を作ったり茶杓削ったりする方が多いです。道具に対する関心が外側にあるだけではなくて、作るところに入ることで、道具がいとおしくなる。
使う時にも、道具に対する思い入れがあったほうがうまく使えるらしいです。
山口 作るところに携わってそうした思い入れができてくるのはいいですね。
野田 人と人が、使ったり作ったりすることを通じて、分かち合うものが生まれるんでしょうね。
僕の場合は使ってくださる人の声を大事にしています。それが、次の作品のきっかけになったりする。
山口 自分が納得するものを出すというのが基本です。でも、自分自身、どういう個性があるか、よく分からない。でも、ほかの方から「個性的な素材の扱いをしていますね」といわれるとそうなんだと気づいたりします。

ーーこれからこういうものを作りたいとか、挑戦したいものとかはありますか。
野田 昔から水が落ちる音や風の音を形にしたいと思っていて、水の形、風の形といったテーマで作品を手掛けているのですが、実際に、水と一緒に使えるものとか音が出る器とか、そういうものももう少しで生まれそうです。

ーー新島ガラスという素材からもっと何か別のものが生まれそうなのですか。
野田 例えばガラスに穴をあければ風の音がぴゅーっとする。いま自分が手がけているふだんの空間で使うものとは別に、外にも置けるものを考えています。
 通常、ガラスというのは作る目的に合わせて、ほかの成分を加えるんですが、新島ガラスは、天然のまま使っています。新島ガラスの場合は自然の緑の色を生かして製品を作っています。最近ではいろいろな色を使っていますが、20数年間、ずっと単色の作品を手がけ、バリエーションは、厚みを変えたり、作り方を変えたりして出してきました。

ーー山口さんも、素材へのこだわりはありますか。  



山口 私は最初から鉄が好きでした。鉄は、普通に使われているものを見ると工業的で硬いイメージがあるんですが、火に入れてたたくと、柔らかい表情が出ます。表面には鉄独特な錆びの色を出すことができます。錆びは中の金属を守っているんです。

ーー錆びって年月を経ることでさらに変化したりするんですか。

山口 鉄の場合、外に置くとさらにさびたりする変化はあります。わざと長い間、外においてさびさせたものを作品にする工芸家の方もいらっしゃいます。変化する面白さが鉄にはあるんですね。呼吸しているといいますか。
 鉄が好きで、「自分椅子」というシリーズを毎年、1つずつ作っています。セルフポートレイト(自画像)のつもりで、作っているんです。
 最近、展覧会では小さいもの、きれいな感じのものが人気があるので作っていますけれど、25年前に松屋銀座で開いた初個展は、椅子だけを展示しました。ほかのことは考えずにそれだけで行こうと思ったんです。
 そのころに立ち返って、やりたいことはちゃんとやろうと思って、椅子はちゃんとやっていこうかなと思います。

ーー器も、見ていて、ここに何を入れようかな、と思うんですけれど、椅子も、誰が座るのかな?何を置くのかな?といろいろ想像を掻き立てられます。
山口 椅子は脚があるので人間に近いものを感じますし、身体にフィットするという意味でもとても魅力的です。

ーー野田さんは先ほど、最近は新島ガラスの本来の色以外の色も使うようになってきたとおっしゃられていましたが、色をもっと使ってみたいというお気持ちはあるんですか。
野田 我々が使っている色ガラスは、工芸的に開発された色ガラスで、今回使ったのはニュージーランドとドイツで作られている色ガラスです。全世界のガラス作家はそれを使っています。
 焼き物を作る人は、金属を入れたりして、自分で工夫して色を出しています。新島ガラスでもそうした挑戦はできるのかもしれませんが、やり始めたら、中途半端にはできないので、大変な作業になると思います。それよりは、造形的、技術的にやってみたいことがまだまだありますので、それを優先したいです。
 今回展示したモザイク状の色ガラスは、妻の板ガラスを使わしてもらっているんです。普通の色ガラスなんだけれど、新島ガラスがカバーしていることで、色みがしっとりしました。発色は抑えられるんですけれどしっとりした味わいがいいなと思いました。

ーーいま、奥様のお話が出ましたが、野田さんの奥様も野田さんと同じ多摩美大出身で、山口さんとご主人も多摩美大出身。4人で同窓会ができてしまうんですね。
山口 クラフトデザイン協会が実施していた「日本クラフト展」に注目していて、協会の理事をされていた野田さんに協会に入る時に推薦状を書いていただきました。将来有望だと書いてくださって。そこに出品したことが勉強になりました。
 最初、野田さんは「多摩美の先輩」としか思っていませんでした。高校の先輩でもあることは、かなりあとになって知りました。会報「若竹」に野田さんの記事が載っていて驚きました。

ーー野田さんは高校時代は、将来どうするかはあまり考えられなかったそうですね(笑)
野田 部活のサッカーを3年までやってしまったからね(笑)。

ーー山口さんも3年生になってからようやく考えられた(笑)。
山口 オーケストラ部の部活が終わった後、佐藤先生に相談したら、反対されなかった。
いいものを見る感覚はあるから、いいんじゃないのと軽く言われた。
野田 僕は二浪してからデッサンを始めました。高校時代は音楽専攻だったんです。美術の先生とはコンタクトはなかったんです。
美術はもちろん、嫌いではなかったんですが、それが職業的に成り立つとは思っておらず、自分のなかでそういう範疇に入ってこなかったんです。
 中学まで新島の中学にいて、父親が校長で東京に異動することになって、僕も東京に来ました。1年目は父と姉と3人の生活でした。
勉強に追いつくのが大変で、9月には1ヵ月肺炎で入院しましたし。女性がノートとってくれたりして大事にしてもらいました。
 1クラス49人のうち半分以上が女性でした。



 その頃は文科系の仕事に就くと漠然と思っていまいた。
 二浪して、あるとき伊勢丹に立ち寄ったら、別館2階にデッサンする学校があったんです。こんなところに勉強する場所があるんだと思いました。
 二階に行ったら女性の受付の方がいました。彼女が、絵を描いてごらんと言うんです。ブルータスを描きました。石膏像を描くのは初めてでした。
立体感出そうとして影を入れたりしたら、技術がないから、線で真っ黒になりました。3時間くらいかけて描き、講評会で、「下手だけれど迫力がある」と言われました。何を褒められているかもわかりませんでした。
 ただ、そのとき、我を忘れ没頭しました。時間を忘れ−−。これだけ熱中できたのはサッカー以外はそれまでありませんでした。
 こういうこともできるんだと思って、そこに1年通いました。
 なんでもできると思うと集中できないというのがありますよね。失敗挫折して、自分はこういうことが好きなのかなと思って、美術の世界に入ることになりました。
 9月くらいに美術の勉強を始めて冬の試験に受かるわけはありません。
お茶の水美術学院に入って1年勉強して多摩美に合格しました。

ーー山口さんはが多摩美に入ったきっかけをもうすこし伺えますか。
 山口 美術専攻ということに迷いはありませんでした。ただ、憧れがあって、部活では、オーケストラ部に入りたかった。部活にすべてを捧げて、家に帰ってはフルートを練習していました。
 美術については、子どものころから工作をするのが大好きでした。時間を忘れて、ご飯も食べるの忘れて彫刻刀を使っていました。その作業自体が好きだったんだと思います。
 高校に入って、油絵もしたのですが、挫折しました。でも、佐藤先生が絵本を作ったり、版画を作ったりいろいろなカリキュラムを用意してくれていて、私は、立体的な木彫りの人形を作ったりしました。先生はなにも言わず、
好きなことやらせてくれました。
 美大は工芸科を受けたかった。木工をやりたかったんだと思います。
 木工を漠然とイメージしながら新宿予備校に通いました。
3年のときに代々木ゼミナールに行って、デッサンを初めて描いたら、あまりにもひどいデッサンで、落ち込みました。それでも美大に行きたいという気持ちは変わらず、芸大を第一志望にしたのですが、受かったのは多摩美でした。



 初めはプロダクトデザイン科に入りました。1年と2年のときに一通りプロダクトデザイナーになるための教育を受けました。
 3年になってから工芸科に移り、ガラスか金工(金属工芸)を選べと言われました。こつこつ木工をやりたかった私としては計画的に積み重ねて作る
金工がいいと思い、金工を選びました。
 そこで鉄が好きだということがわかり、4年になる直前にやっと自分の方向が決められました。
野田 1977年くらいに多摩美に新しい科を作ろうという話が出てきました。ガラス、そして、金工も一緒に作ろうということになりました。
 そして「クラフトデザイン」という枠組みで二つの授業が始まりました。
 僕はその1期生なんです。
 最初はなにもなくて、木工室の外にテント張って、火を焚いていました。金属の人たちは表でカンカンやっている。
 自分たちで道具や設備を作りながら、始めたんです。1年後にプレハブができました。
 僕は最初、プロダクトデザイン科にいたのですが、デザインワークより手で完成品作りたいという欲求がもともとありましたので、4年のとき、できたばかりのクラフトデザインに移ったのです。
 そこで出合ったのがガラスでした。
 ただ、そのときには新島ガラスにつながるとは思ってもみなかったです。

ーーガラス工芸を始めたときには新島ガラスとの結びつきはまったくなかったのですね。
 コーガ石(抗火石)という新島で産する火山岩をくり抜いてガラスを乗っけてみようとは考えことはあります、石自体をガラスにしようというところまで考えは及ばなかったですね。
 僕が留学から帰ってきたときに、初めてそういう話があったのです。
 イリノイ州立大学の大学院で3年ほど勉強して帰ってきたときに、新島の役場の担当者からコーガ石をガラスにしたいという話があったのですが、そのときは工場を誘致するような話だったので「それは違う」と思いました。
 留学中は世界中のトップレベルのガラス職人がシアトル郊外に集まり、ワークショップを開催していました。夏はそこでアシスタントをして過ごしたりしていましたので、新島でも、いろんな人たちが出入りできるガラスの施設を作りたいと思いました。小さい瓶つくったりする工場を作るのではなく、ガラス自体の可能性を探り、いろいろな体験できる施設を作るべきだという報告書をまとめ、議員さんを長野県安曇野市にあるあずみ野ガラス工房などに案内し、
「地域性もあるし、原料もあるので、自分たちで勉強しながら村の人が育てる施設にしないと長続きしない」と強調しました。
 工場でなく、新島の教育や産業に活用できるような施設にしたいという思いは「新島ガラスアートセンター」として実現することになり、言った本人が責任者となりました。最初は村が4000万円くらいの予算で計画しましたが、国の補助金もついて1億8000万円を投じて作ることができました。
 新島で生まれ育ちましたが、新島とは縁があります。新島から東京に移り、富士高校に入ったときの担任が新島先生ですから(笑)。

ーー山口さんは、多摩美を卒業されてから、どんな経緯で作家になられたのですか。



山口 卒業したらふらふらしないで就職しろと父からも言われていたので、就職課に求人がきていたハンドバッグの会社に就職しました。
 そこでいろいろなことやりました。海外のブランドをこちらでアレンジして販売したりしていましたが、会社がバッグ以外の分野にも事業を拡大していくことになりました。そのとき、電話機の自由化に伴い、新しい電話を出すというプロジェクトが始まり、その担当になりました。
 そのときにプロダクトデザインがようかく役に立つと思って始めたのですが、非常に売れまして、その後、いろいろな文房具を出すというようなときもわたしが担当するようになったのです。
 そのとき、ファッション業界よりものをつくる方がいいなと思ったんです。
 5年間、社会ってどうなっているという勉強はさせてもらいました。
 そういう勉強はできましたが、主人が多摩美に勤めていて、自分の仕事場がほしいということを言い出しまして、会社の仕事も面白くなっていましたが、ものづくりをしたいと思い、一緒に独立したんです。5年間のブランクの後、金工に戻りました。

ーーお二人とも回り道をされているようで、それがいまに生きているのですね。

野田收さん(新島ガラスアートセンター館長)
1952年 東京都新島生まれ
1978年 多摩美術大学立体デザイン科クラフトデザインガラスコース卒
〜80年 同立体デザイン研究室勤務
1984年 イリノイ州立大学大学院卒
    野田ガラス工房設立
1986〜90年 多摩美術大学非常勤講師
1988  新島ガラスアートセンター設立
現在  同ディレクター
<仕事について>新島ガラスアートセンターというところを村から委託されて運営しています。そこでは新島ガラスという新島の火山石を使って作った素材の開発からものづくり、さらに研修なども行っています。毎年10月、あるいは11月に新島国際ガラスアートフェスティバルを開催、ワークショップも行っています。観光客向けには新島ガラスでグラスなどを作る体験教室も開いています。
 作家活動は大事にしていて、年に1回個展を開きます。作家をしながら啓蒙活動に力を入れています。
「野田收ガラスワーク」








山口みちよさん(鍛金作家)
多摩美術大学立体デザイン科クラフトデザイン金工コース卒(1984年)
栃木県に工房設立(1989年)
茨城県に「アトリエ金工やまぐち」設立(1998年)
日本クラフトデザイン協会会員
茨城工芸会会員

<仕事について>
 いろいろな金属を使って工芸品をつくっています。
 金属は鋳物とは違い、型を作ってそこに金属を流すというのとは違いまして、もともとある金属の板とか棒材を赤く熱して、金槌で叩くことによって、いろいろなものを変形させてものを作ります。一般には「鍛金(たんきん)」と言われる作業をします。もともと日本にある金工の技法の一つです(鋳金、彫金、鍛金の3つがある)。わたしの作品では、鍛金の中にも彫金の技術がちょっと入ったりしています。
 工芸は純粋なアートというより、造形に、用途というものが必ず付いてきますので、ある程度限定された世界の中で、自分を表現します。
 百貨店、ギャラリーなどで個展を開催しています。
「山口みちよ鍛金展」






 富士高校で地理の教鞭をとっていた新島岩夫先生の講義を聴く「第2回 新島岩夫先生と語る会」が、2016年6月5日、東京駅近くの貸会議室で開かれた。第1回は、2015年10月、高校33回卒のみの参加で開催したが、「他の期の方にもぜひ聞いてもらいたい」と、幅広く呼びかけを行い、22回卒1人、27回卒2人、28回卒1人、30回卒2人、33回卒3人、40回卒4人の計13人が参加した。


(13人が参加)

 第1回は、戦後70年ということで、「海軍兵学校」出身の新島先生に、「戦争」について、実体験を交えて講義していただいた。しかし、この回だけでは語り尽くすことができず、第2回講義をお願いした。
 第2回は、第二次大戦を中心に朝鮮戦争、ベトナム戦争までが講義の範囲だった。先生は、現役時代と変わらない口調で3時間、ほとんど休みなく語ってくださった。


(お手製の資料を使って講義)

 特に印象に残った内容は、次の通り。
1.先生自身が広島県江田島市で8月6日に体験した原爆のお話。爆心地から9キロ離れていたのにすごい爆発音と衝撃(先生曰く震度7クラス)があった。


(昭和20年8月6日に先生が9キロ離れた江田島海軍兵学校で目撃した広島上空のキノコ雲。きれいなピンク色した雲上部が印象に残っているそうだ)

2.終戦直後の8月20日に江田島から静岡へ復員する際、広島駅で約6時間の乗継待ちがあり、その短い間に被ばくした。静岡に着いた数日後に頭髪が完全に抜け落ちてしまったが、その後また生えて元に戻った。80歳の時に突然喀血し入院したが、被爆が原因ということで100万円くらいの医療費が無料になった。その時まで被爆している自覚がまったくなかった。
3.海軍兵学校入学後の1ヵ月間は上級生から毎日100発以上殴られた。その数年後に歯医者に行ったら「あなたの口内はボクサーのように傷だらけですよ。いったい何をされたんですか?」と驚かれた。
 体験者でしか語りえない貴重なものばかりでした。会終了後の懇親会でも富士高時代の裏話などもたくさん話され、87歳とは思えないほど、終始お元気だった。


(会終了後の懇親会でお酒が入ってご機嫌の先生)

 新島岩夫先生は富士高校で昭和30年代後半から20年以上地理の教鞭をとられた。先生は昭和20年4月に広島県江田島にある海軍兵学校に入り8月15日の終戦までそこで過ごされた。戦争体験された方たちが少なくなっている現在、当時の体験を交えて講義していただけたのは大変幸運だった。

(以下は講義用資料)






































(高校33回卒 石渡研)
 都立富士高校などで38年間、美術教師を務めながら、世界各地の史跡や辺境の地を精力的に取材し、民族固有の伝統、文化、祈りのかたちを描き続けてきた佐藤美智子先生。先生が1961年から2015年までに49回にわたる個展で発表された130号クラス(194cm×146cm)の大型作品数十点を一堂に展示する美術展「佐藤美智子50年展」を12月16日から27日まで、アートガーデンかわさき(川崎市川崎区駅前本町12−1)で開催する。企画しているのは、都立富士高校の教え子有志たち。50回目の個展は先生と教え子のコラボ美術展となる。佐藤先生に美術展開催について聞いた。(聞き手・高校27回卒・相川浩之、落合惠子)
※佐藤先生の美術展を人的、資金的に応援するプロジェクトについて、文末で紹介しています。ご覧ください。



――先生は今年1月、49回目の個展を東京・有楽町の「ギャラリー日比谷」で開かれました。節目となる50回目も来年早々、ギャラリー日比谷で開かれるのかと思っていました。なぜ、50回目は今年12月にアートガーデンかわさきで開くことになったのですか。

佐藤 50回目の個展の取材のための訪問地としてブータン行きを計画しましたが、「要介護状態で、ブータンの高地で過ごすのは、身体に負担がかかり、危険。家族の同行がなければ、ツアーに参加するのは難しい」と、ずっと利用していた旅行会社に言われました。かつてインドの高地に飛行機で行った時に、意識を失ったこともあり、旅行会社の言うことも正しいと思い、「個展は49回で終わりにする」と決めました。
 一昨年、脚立から落ち、骨折してから脚に血が通わず、首も痛い。このあたりが限界と思いました。
 新作を発表する個展は諦めていたのですが、これまで個展の準備を手伝ってくれた教え子たちが、かつてフランスで個展を開催したときのように、大きな作品を展示する展覧会を企画してくれることになり、お任せすることにしました。
 ギャラリーに、よく個展を見にきてくれた教え子たちも、私の20代、30代の作品は知らないと思います。また、30歳ごろから描き始めた仏教絵画で、フランス政府が個展を開いてくれました。アートガーデンかわさきでの美術展では、そのころの作品を含め、私のこれまでの主な作品を見ていただきたい。「入場無料」ですので、ぜひ、足を運んでください。



――1998年3月1日から20日まで、「フランスにおける日本年」の一つとしてフランスで開催された「サトウミチコ展」では、仏像を描いた作品36点が展示されたと聞いていますが、どんな経緯で招聘があったのですか。

佐藤 1997年から1999年にかけて「フランスにおける日本年」と「日本におけるフランス年」として、両国において多くの記念行事が行われ、国宝級美術品1点ずつを相手国で公開することも決まりました。日本からは百済観音、フランスからはウジェーヌ・ドラクロワの代表作『民衆を導く自由の女神』が選ばれました。法隆寺の御仏は門外不出だったのですが、そんな経緯で百済観音がフランスのルーブル美術館で公開されたところ、連日、長蛇の列ができました。仏像の人気にフランス人が驚き、仏像を描く現代作家はいないかということになって、私に話が来たのです。
 卒業生(24回卒)のHiroko Martin(向井)さんがフランス語の画集を作ってくれて、現地では通訳もしてくれました。



――先生は世界各国を回り、その地の民族、宗教、文化に関心を持って絵を描かれてきたわけですが、30代は、主に、仏像を描かれていたのですね。

佐藤 東洋には仏像や仏跡がたくさんあるので、日本軍が侵攻したような国は全部回ろうと思い、回りました。各民族の宗教に関心があった。

――人間の営みのなかでも、特に、仏像に関心を持ったのはなぜですか?

佐藤 信仰の対象として彫ったものでしょう。形となって現れた思想や信仰を見てみたかった。

――日本でも相当、仏像は見て回られたのですか。

佐藤 教師になってからは毎年、奈良や京都に行っています。琵琶湖周辺にも、十一面観音など、すごい仏像がたくさんあります。





――画家としてのデビュー作は、今年1月の個展で展示された「末人の海」ですね。「ツァラトゥストラ」の中で、ニーチェが「何の目的もなく、人生を放浪し、生をむさぼるだけの人間」とした「末人」がテーマ。抽象画ですね。

佐藤 抽象画ではありません。具象的に「末人の海」を描いています。でも、明治、大正生まれの太平洋美術展の先生方はあの絵を見てびっくりしたらしいです。筆で描いている絵ではなく、岩石みたいな絵の具を貼り付けていたので。男性が描いた絵と思ったらしいです。
 セメント会社や石材会社をたくさん調べて、いろいろな石を使いました。物理や化学の先生方に、これをキャンバスに貼り付けるのにはどういうものを使えばいいかを聞きました。かなり研究して、あの絵にたどり着きました。

――先生は、学生時代から美術の先生になろうと思っていたのですか。

佐藤 社会科の先生にもなりたくて免許は持っていました。美術関係は工芸、彫刻、絵画など、いろいろな分野を学び、免許をとりました。

――絵は子供の頃から得意だったのですか。

佐藤 小学校も中学校も高校も学校の代表で展覧会などに絵を出していました。

――先生は福島県で長く過ごされたと聞いていますが。

佐藤 小学校2年生までは亀戸にいて3年生になってから疎開で福島県の小学校に行かされました。福島は両親の故郷でしたので。

――絵はどこで学ばれたのですか。

佐藤 父は変電所に勤めていたのですが、日曜になると日本画を描いていました。特に絵を教わったことはありませんが、小学生のときに描いた遠足のときの絵は校長室に飾られました。
 私は長女で兄が5人いました。下は弟がいてその下に妹が2人。一番上の兄も絵描きになるつもりでいたのですが、父に反対されて軍人になりました。その兄は私が絵を描いているからと、私が30歳になるまで、毎月、3000円を送ってくれました。3000円というのは当時の国立大学の半年分の学費に相当する額でした。

――社会科はどんなところに魅力を感じたのですか。

佐藤 社会科は面白いです。経済も哲学も。高校のときは学校の図書館や、町の図書館、町の本屋さんに毎日立ち寄っていました。図書館の一番下に並んでいる哲学の本は全部引っ張り出して読みました。人文地理は地球を全部歩きたいから関心がありました。北極とか南極とか人が住まないところに行く気はしないんです。

――人と文化にご関心があるのですね。

佐藤 宗教と民俗に関心がありました。私が砂漠を巡ったときには今のような紛争はなかったのに、残念です。遺跡まで壊すなんて−−。

――先生は、どうして世界に憧れたのでしょうか。

佐藤 未知の世界を見たいと思いました。未知の本を読むように未知の世界を知りたかった。

――最終的には美術の先生を選んだわけですね。

佐藤 社会科は好きでしたが、社会科の先生という仕事には魅力を感じませんでした。

――美術の教師として最初に採用されたのは豊島区立駒込中学ですね。

佐藤 義務教育で一定期間教べんをとるという条件で、大学で奨学金をもらっていましたので、まず駒込中学に赴任。その後、学校群制度スタートの1967年に都立富士高校に着任、19年間勤めました。1986年に都立千歳丘高校に転任、定年まで10年、勤めました。



――美術で表現を磨くためには、技法だけでなく、物事に対する幅広い関心も必要ですね。美術の授業をどう考えられていましたか。

佐藤 学問のなかでも芸術が一番難しいと思います。「隙間」だらけだから。まだまだ研究、探検の余地がある。生徒には生まれて初めてというような経験をさせました。「表現技法」というのがあったでしょう?筆で描くだけじゃなくて、いろいろな技法を試してもらった。「ピーナッツの殻に絵の具をつけて転がすとこうなるんだよ、先生」なんて得意げに見せにくる生徒もいました。

――「表現技法」の課題は大変でしたけれど、楽しみでした。

佐藤 15、6種類は教えるわけ。あとは自分で技法を開拓してもらう。

――先生はずっとアトリエにいらっしゃいましたね。

佐藤 現在の自宅のアトリエができるまでは朝まで学校で絵を描いていました。学校がアトリエでした。

――先生というよりは作家が美術室にいた感じでした。

佐藤 でも、「教えたい」という気持ちは強かったのですよ(笑)。「美術の表現は探せば無限にある」ということを教えたかったのです。

――それを自分でもやって見せた。

佐藤 そうそう。

――僕らは先生のやられていることをもう少し見に行けばよかったんですね。

佐藤 そうですよ。

――高校生って、受け身で知識を詰め込まれていたけれども、先生は聞きにいけば、答えてくれたんですね。

佐藤 だから、美術室に入り浸っている生徒がいました。一浪二浪した生徒は書類を取りに学校に来るわけでしょう。そうすると美術室はいつも明かりがついている。それで、話し込んでいく。

――行きやすい場でした。そういえば、先生が個展を永年、開いてきたギャラリー日比谷もそんな雰囲気でした。

佐藤 ギャラリー日比谷は富士高校の21回卒の女流画家、今村圭さんの紹介で個展を開いたのがきっかけです。千代田線で行けば自宅から1本という好立地なので気に入りました。それからずっとギャラリーは変えなかった。

――個展は、ずっと1月開催でしたね。

佐藤 早く外国に行きたいでしょう。だから、個展が終わったら、すぐに飛び出す。5月搬入の太平洋美術展があるから、そのための取材に出ていました。
 学校で教えていたときには春休みと夏休みに取材をしていました。

――夏休みに取材したものが個展の新作になるわけですね。当時は今よりも世界を自由に回れたんですね。

佐藤 自由に回れました。一人旅で注意はしていたけれど、危ない目にあったことはありませんでした。

――先生は何度もフランスに行かれているようですが、フランスから美術展開催の依頼があったときは嬉しかったでしょう?

佐藤 幸運だったと思います。その時は60歳を過ぎていて退職金があったので。日通に聞いたら絵の輸送費が1000万円かかると言われたけれど、ヤマト運輸が650万円で引き受けてくれて、実現しました。
 130号クラスの大型の作品も含めて36点展示されました。そんな経験は初めてで、この12月の美術展は、同じ感じで観ていただけると楽しみにしています。



――先生の大型作品は、多面体が絵の中に隠れているような技法を使われていますが、どんな狙いなんですか。

佐藤 いろんな空間感を出すために、使っています。そうやって画面のなかに取材をしてきたいろいろな要素を表現しています。

――我々からみると、デビュー作の「末人の海」とは表現が随分変わっていますが、何かあったのですか。

佐藤 「末人の海」は、図書館で読んだ大思想全集のなかからヒントを得て、描きました。でも、実際に生の世界を見てくると、写実的に描かなければだめと思いました。アフリカの民族を抽象的に描くなんて無理です。

――表現が変わる途上はどうだったの興味があります。

佐藤 その途中を、ほとんどの人は、見ていない。

――ぜひ見たいですね。



佐藤 49回目までは自分で個展を開催してきたけれど、50回目は有志の方々がやってくださるので、私はしゃしゃり出ません。

――先生の絵に対して、「平和、反戦がテーマ」という言い方をされる方もいますが。
佐藤 アメリカは許せないと思っています。原爆を広島と長崎で実験したことは許せない。だから、アメリカには行きたくない。アメリカの絵は描く気が起きません。

――中東では一部の勢力が貴重な遺産を破壊しており、そうしたことに対する怒りはあると思います。しかし、そうしたことが動機になって絵を描かれているのではなく、描かれているものは必ずしも「平和、反戦」ではないと思うのです。先生は、なぜ、世界中を見て歩いているのですか。

佐藤 世界中を見ないと多様性がわからないからです。多様性に一番関心があります。本ではなく、現物を見なくてはという気持ちがあります。「砂漠は暑い」というのは体験しなくては。私は虚弱児だったし、いまも薬が手放せないのだけれど、現地に行って、体験したいと思うのです。

――身体に自信がないとなかなか外に出て行く勇気が出ないものですが、先生の場合、何か、かき立てられるものがあって行ってしまうのですか。ミッションを感じられているのですか。

佐藤 やはり世界地図です。当時から、社会科の部屋からでっかい地球儀を美術室に持ってきて眺めていました。世界をすべて見てみたいと思っていました。

――何カ国ぐらいを回られたのですか。

佐藤 私の記憶が正しければ、180を超える国・地域を回りました。オリンピックの入場行進を見て、まだ、行ってない国はないか、探しました(笑)。

ーー人間の営みのなかでも、特に、仏像に関心を持ったのはなぜですか?

佐藤 信仰の対象として彫ったものでしょう。形となって現れた思想や信仰を見てみたかった。

――今回の美術展では、大きな作品を中心に展示されるとのことですが、佐藤美智子先生を知ってもらいたいと思ったとき、小品もぜひ展示してもらいたいですね。やさしい小品をみると大きな作品の厳しさもわかる。対比があったほうがいいような気がします。

佐藤 小作品はいろんな方向を向いて描いています。

――先生は一昨年、脚立に足を挟んで落下、骨折をしてしまいました。入院を勧められたにもかかわらず、海外に取材に行ってしまった。あのエネルギーはどこから来るのでしょう。

佐藤 この機会を逃したら、そこへはもう行けないと思うと、諦められませんでした。

――今回は一区切りで、集大成展の開催になりましたが、描く点数は減っても、これからも、新作をぜひ描き続けてください。



佐藤美智子(さとう・みちこ)
1935年11月25日、滝野川区(現・北区)昭和町で生まれる。44年に福島県に疎開、58年まで過ごす。58年福島大学学芸学部美術専攻課程卒業。58~67年、豊島区立駒込中学、67〜86年、都立富士高校、86〜96年、都立千歳丘高校で美術教師を務める。
61年太平洋美術展初出品、文部大臣賞受賞、会友に推挙される。安井賞候補新人展に「末人の海」を出品。64年日本橋の秋山画廊で第1回個展。75年InSEA(国際美術教育学会)パリ大会参加、以後、3年に1回の学会に2011年まで参加。98年第32回個展=「フランスにおける日本年招聘展」(クレルモン・フェラン)2015年第49回個展をギャラリー日比谷で開催。

※佐藤先生の美術展「佐藤美智子50年展」は、富士高校の卒業生有志によるプロジェクトチーム(発起人・長昌浩、橋本真理子、矢野史子、佐藤清親、今泉茂徳)で準備を進めています。開催中の運営など、お手伝いいただける方を求めています。

※9月7日、佐藤先生のご自宅&アトリエで、プロジェクトチームが初期の頃の作品の”発掘”作業をしました。先生がインタビューで語っていた、「私の20代、30代の作品を、見事、発掘。文字通り、佐藤先生の50年の集大成展となりそうです。作品集の撮影も行いました。作品集もお楽しみに!













※9月18日、「佐藤美智子50年展」のプロジェクトチーム15人と広報2人が四ツ谷に集まり、佐藤先生もお呼びして、健闘を誓い合いました。プロジェクトチームは49人に膨れ上がりました。この中には駒込中学の卒業生2人、千歳丘高校の卒業生2人も含まれます。3校が協力する態勢が整いました。



※また、クラウドファンディングの仕組みを利用して、9月12日から12月11日まで、美術展開催のための資金の支援をお願いしています。ご協力いただける方は

https://readyfor.jp/projects/SatohMichikoまで。