高校33回卒の、卒業後初めての同期会が、6月27日(土)18時から21時まで、コートヤード・マリオット銀座東武ホテルで開かれました。422人中238人が集まり、先生方も5人出席されました。 


 昨年12月の会場探しから始まり、クラスごとの幹事を増やしながら、最終的に20人以上の大幹事団を結成して準備を進めてきました。
 同期生の連絡先を確認するのには、かなりの時間がかかりましたが、幹事団が総力を結集した結果、当日は当初の想定を超え、会場のキャパを上回る参加がありました。
 しかし、会費を事前振込制にしたことと受付を開始1時間前からはじめたことにより、つつがなくスタートすることができました。



 司会は、和田(旧姓:西田)麻理さん。同期会の発起人であり幹事長である石渡研くんの乾杯の発声に続き、現在も声楽を続けている、末(旧姓:田村)淳子さんによるヴェルディの「乾杯の歌」で、格調高く、富士高らしい乾杯で幕が開きました。伴奏は、今も演奏を続けているオーケストラ部の部員によるフルート&弦楽で行いました。
 先生方でご出席されたのは、大橋京子先生(保健・体育)、坂下泰一先生(英語)、染谷知子先生(音楽)、田代久人先生(数学)、新島岩夫先生(地理)の5人。とてもお元気でした。
 名札には1年、2年、3年時のクラスを記し、卒業アルバムの写真を丸く切り抜いて、幹事団が糊で貼りました(超アナログ、しかも写真は相当恥ずかしい!)。
 しかしこの名札が、歓談時に学年のクラスごとに集まる際に大いに役立ちました。
 歓談中の出し物として、創立90年記念の際にDVDとして作成された、60周年記念映画「青春の軌跡」から、私たちが2年・3年のときの動画を上映し、大好評。
 初めて見た人も多かったようで、カットが変わるたびに、会場内から歓声が上がりました。
 そのほか、オケ部メンバーによるフルート四重奏あり、軽音学部によるバンド演奏ありと、会場内はまるで富士高祭のようでした。



 そして最後は、お約束の校歌。
 中高一貫となっても「高校」を特定する歌詞がなかったため、今も母校の校歌として歌われているそうです。卒業生としては嬉しい限りです。



 なんと染谷先生が指揮をしてくださり、ピアノと弦楽器、そして管楽器も加わった伴奏に合わせて、200人以上の大合唱で締めくくりました。
 二次会の参加者も、幹事の予想を上回り120人超が参加!
 立食3時間の後に、50歳を超えるみんなが座れるはずの会場でも、椅子が足らない事態に・・・。
 じゃんけん大会あり、カラオケありと、こちらも大盛況のうちに閉会しました。
 第2回の開催時期は未定ですが、7年後、還暦を迎える2022年には、第3回として盛大な会を開催する予定です。
(石渡研、増田佳彦、福田和美、毎熊典子)
 5月8日午後、富士高校の卒業生(27回卒)で、東京女子医科大学消化器外科主任教授の山本雅一さんが、都立富士高校附属中学校の2年生120人に対して、「1外科医からのメッセージ」と題して、外科医になるまでの思いや、影響を受けた人、仕事や人生に取り組む姿勢などを語った。「目標を持ち、強く念ずれば、思いはかなう」という力強いメッセージとともに、難易度の高い肝臓の手術の映像を紹介しながら外科医の仕事の魅力を後輩たちに伝えてくれた。



 山本さんは、東京女子医科大学消化器外科で、難易度の高い肝臓、膵臓(すいぞう)の手術を専門にしており、この分野で高度な技能を持つ専門医を育てる「高度技能医制度」の推進者でもある。



 上野校長は、山本さんの講演に先立つ挨拶で「山本先生は、富士高校の卒業生。ご縁があって1時間、いろいろなお話をしていただくことになりました。大先輩に甘えて、きょうは将来の夢を実現するヒントを得てもらいたい」と語った。終始、中学生の表情を観察しながら語りかける山本さんの話に、中学生たちはどんどん引き込まれていった。

 山本さんの講演は、中学2年生の進路探究の授業である「キャリアセミナーⅡ」として行われた。

 山本さんは、まず、様々な人とのつながりの中で、成長し、行く道を決めてきたことを思い出として語った。



 「自己紹介します。私は、富士高校の近くの方南町というところで生まれました。方南小学校と泉南中学を経て、都立富士高校に入りました。高校には、歩いてきたり、自転車で来たりしました」
 「小中高校と生活する中で非常に印に残っていることがあります。小学校のときの担任の先生が、いろんなことを経験させてくれました」
 「一つは家畜の世話。うさぎの世話とか鳥の世話とかをしました」
 「方南小学校の後ろには森があるんですが、そのころ、森を作りました。木を植えたり、花を植えたり、水をやったり肥料をやったりしました」
 「それから、木造の校舎を毎日掃除しました。モップを持ったり、ほうきで掃いたりしました。みんなで掃除するんです。楽しかった」 
 「その先生はフルートがうまく、よく吹いてくれました。私たちはウイリアムテルとか、いろいろな曲を縦笛で吹いて、一緒に合奏しました」
 「特に記憶に残っているのが、朗読。朝、授業が始まる前に、いつも面白い本を読んでくれました。先生の読み方もうまく、物語の中に引き込まれました。『トムソーヤの冒険』とかを毎日読んでくれる。本を読むのがすごく好きになりました」
 「先生は、生物のこと、生き物に対する考え方を非常によく教えてくれました。それは、命を大事にしなさい、ということだったのではないかと思うんです。小さな動物、昆虫、鳥、花を含め、すべてのものをいつくしむ気持ちがその時代に芽生えました」
 「小学校の先生との出会いが人生の中で非常に大事な出来事でした」。

 「小学校5年のときに私の父が死にました。肝臓が悪くて34歳で亡くなりました。私が11歳のときです。血を吐いて死にました。どんな病気かわかる?肝硬変という病気でした」
 「どんな病気でもいいんだけれど、肝臓がダメージを受けると、硬く変わっていきます。肝硬変になると、肝臓を流れる血液の流れが悪くなるんです。肝臓には、どこから血液が来るの?腸からくるんだ。肝臓が硬くなると肝臓の手前で血液がせき止められる。その血液が行き場所がなくなり肝臓以外のところを通ろうとする。側副血行路というんだけれど、食道とか胃を通って心臓に戻ろうとするわけ。普通の人の場合、腸の血液は肝臓を通って心臓に行くのだけれど、肝臓の悪い人はそこを通らないで、他の道を通る。そうすると、そこから血が出やすくなってしまう。それを食道静脈瘤っていうんだけれど、それで血を吐いて父は死んでしまいました」
 「50年前のことだけれど、いまだと、それで亡くなる人はいないんですよね。非常に残念です。昔は助けられなかった。医者になろうかなと思ったのは高校になってからだけれど、父のことは頭に残っていたのかな、と思います」。



 「医学部に行く、というのが医者になる前にあるんだけれども、富士高校にいて、比較的数学とか物理が好きでした。コンピューターは、いまは普通のものだけれど、当時は最先端で、これからどれくらい発展していくのかわからないくらい得体の知れない領域でした。コンピューターの仕事をしようかな、あるいは医者みたいな仕事をしようかな、と悩んだ時期がありました」
 「そのときに考えたのは人と接してする仕事が自分にあっているんじゃないかな、ということでした。人と人とのつながりのなかで仕事ができたらいいんじゃないかなと思いました。小学校の先生の影響もあったかもしれません」  
 「みなさんはこの後、高校に進むわけで、現時点では、どっちの方向に行くのかはわからないと思います。だけど、興味がある、やってみたいということをやってみたらいいんじゃないかな、と思います」。

 「高校では、バスケットボールのクラブを一生懸命やっていました。一つ上にいい先輩がいて、いまでも付き合っています。クラブ活動は楽しく、いまでもクラブの人たちと付き合いがあります。そのときの友達付き合いは本当に大事です。大事にしていただきたい」。

 「筑波大学に入りました。私は大学ができて、2年目に入った2回生でした。当時は周りに何もありませんでした。校舎と宿舎があるだけ。林、沼、舗装されていない道路。お店はない。宿舎で風呂に入って外を見ると、地平線が見えるんですよ。地平線に夕日が沈むのを見ました。すごいところに来ちゃったなあと、びっくりしました」「夜カエルが鳴くんです。こんなにでかいガマガエルがそこらじゅうにいっぱいいて、夜一気に鳴くんです。ぐわぐわぐわと鳴く。うるさくて眠れない」
 「なぜ筑波に行ったのか?いくつか大学に願書を出すので、案内を送ってくれと頼んだら、筑波大学が一番最初に来た。それで、行こうかと思いました。それだけ(笑)」
 「大学生活は、非常によかった。何もないから、夜も、みんなと話したり、飲んだり食べたり、バスケットするしかなかった。友達付き合いが濃厚な時代を過ごせました」。



 「なぜ外科医になったか。写真を見せましょう。この人。日本の外科の中で一番有名な人だと思います。中山恒明先生。厳しい顔してない?この先生が、6年生のときに講義しにきてくれました。筑波大学の外科の教授のボスがこの人だったんです。食道癌の治療成績を上げた人です」
 「当時は、食道癌の手術するとほとんどの人が死んでいました。食道癌になるとご飯が食べられないから栄養が悪い」「食道ってどこからとるか、わかる? 食道は心臓の裏にある。で、右の胸を開く。心臓はちょっと左側にあるから右側から攻めると食道にアプローチできるんだ。食道癌の手術はおなかも開いて、胸も開いて、首も開かなければいけない。3箇所開いて、食道をとったら、胃を食道のほうまで持ち上げる。そういう手術をする。ところが、つないだ胃と食道が栄養がわるいとくっつかない。治らない。この先生の時代は手術した人の9割近くが死んでいた。この先生はまず栄養をつけようとした。胃に穴を開けて栄養のチューブ入れたんです。しばらく栄養をつけて、2回目の手術で胸を開いて食道癌をとった。3回目に胃を持ち上げて食道とつないだ。それで手術で9割亡くなっていたのを3割まで落とることができた。世界中からこの先生のところに来た」。
 「この先生は講演がうまい。すごくうまい。大学の6年生のときにこの先生の話を聞いて魅せられました。どんなことを言ったかというと、外科医、特に、消化器外科医はクリエイティブ、創造性のある仕事だというんです」「なぜか。それは、おなかの臓器を、ただとるだけでなく、《再建》する。例えば、腸をとって、うまくつなぎあわせないとご飯が食べられない。つなぎ方にセンスが出てくる。いろいろな方法が考えられ、一つの手術でもいろんな工夫ができるし、いろいろなことをやることによって、患者の後の回復に資することができる」 
 「創造性にあふれた仕事であることを教えてくれたんですね」「消化器外科医は面白そうだということで、女子医大に行こう、と思ったんです」「女子医大が家から近かった、とうことも大きかったですが。職場が近いというのは非常に大事」。

 「この人は、羽生富士夫という世界的な外科医で、膵臓癌の権威です。膵臓って、どこにあるかわかる?胃の裏側にあります。世界で一番膵臓癌の手術をしたとしてアメリカで表彰されました。この先生がもう一人のボスなんですが、非常に厳しい人で、怒られっぱなしでした。口癖が「馬鹿野郎」で、ずっと馬鹿野郎と言わ続けてきました。怖いけれど温かみのある人でした」

 「もう一人。手術をしているのが高崎健先生。この人も世界的外科医です。肝臓の手術の工夫をしました。この先生も厳しい人でした」。

 「いまはだいぶ、手術が変わりました。いまはおなかを開かないで手術をするんですよね。腹腔鏡手術。おなかの中にカメラを入れて手術をします。確実に時代は変わっています。いまはおなかを開けている手術が将来はおなかを開けないで済むようになるでしょう。もしかしたら、ロボってによる手術になる」
 「いまでも前立腺腫瘍などはロボットで手術をしたりしています。なぜロボットのほうがいいと思う?一つは《よく見える》。狭いところがよく見える。もう一つは、《手が震えない》。細かい手術ができる。ロボットのアームは人の手が多少動いても動かないから、細かい手術ができるんだ。ロボットは、狭い視野での細かい手術が得意」「前立腺ってどこにあるかわかる?膀胱の出口のところにある。男性にしかないよ。お尻の穴の近くにある。そこにカメラを持っていって狭い視野で手術をする」「ロボットの視野で見ると3D で細かいところまでよく見える。視力が落ちても、手が震えてもある程度できる。高齢の外科医でも手術ができるかも。高齢の外科医に手術してもらいたい?(笑)」。

 子供たちの視点や気持ちに近いところで、語りかけるように話を進める山本さん。医師への関心が高まったと見計らったところで、一つの提案をした。

 「さて、どうだろう。手術を見てみたい人?」
 (大多数の人から手が挙がり)「ほお」。
 「じゃ、見たくない人?」
 (数人から手が挙がる)「見たくない人は見なくてもいいけれど、何分くらい見せようかな」



 「手術の映像を見せる前に、一つだけ言っておきます。私はずっと手術をやってきて、若い外科医を育てています。外科医になったとして、どんな外科医になるかというのは、自分が決めていくことだと思うんです」
 「いまから、肝臓を切る手術を見せますが、肝臓切る手術というのは、それなりのトレーニング経た人じゃないとできないんです。まず患者さんを一生懸命みる努力をする人じゃないとできない。そのうえで、自分自身がどんな外科医になるかを強く思わないといけないのです」 
 「昔は、消化器外科医というと何でもやりました。食道も、胃も、大腸も、肝臓も膵臓も−−。でも、いま細分化してきている。肝臓の医者、膵臓の医者というふうに細分化している。そうすると、そのなかで《自分は肝臓を切る外科医になりたい》と強く思わないと肝臓外科医になれないんです」 
 「これって大事なことで、別のことでも言えると思うんです。最初にまず、みなさんが、《医者になりたい》と思ったら、強く思い続けないと医者になれない」 
 「どんな仕事でも一緒。プロ野球のピッチャーになりたいと思ったら、やはり、それを思い続けないとだめです。強く思う。毎日思う。絶対なるんだと思うというのは、大事だと思います」
 「外科医になっても、どんな外科医になるかというのを自分で思い描き、こんな外科医になると思わないと、なれない」
 「これだけは真実です。私はたくさんの外科医を育ててきましたが、一部の人だけしか肝臓を切る外科医になれないです。その一部の人は強く肝臓を切る外科医になろうと思い続けただけです。思い続けて努力すれば絶対にできます」
 「(外科医の適性は)手先が器用だと、そういうことではありません。とにかく、なりたい、やりたい、と思い続けることが絶対必要です」。

 手術のビデオを見る前に山本さんが何度も強調したのは、《目標を持ち、強く念じる》ことだった。
 
 「では、手術を見ようか」
 「ちょっとだけ説明すると肝臓には血管が入っています。これが門脈で、これが動脈。この血管を処理して肝臓を切っていきます。これは肝門部胆管癌を切る複雑な手術です」
 「見たくない人は下、向いててね。音は出ないからね。いい?大丈夫?」

 (約10分、手術映像を流す)



 「これは、肝十二指腸間膜といって、ここに血管が走っている。肝臓に行く血管が。動脈と門脈が走っている。血管の周りにリンパ節というのがあって、リンパ節をとる手術。これは肝動脈。間膜のなかから動脈を取り出しているんだ。これは右の肝動脈。これを結さつ(縛って壊死させて)切る。最近はエナジーデバイスって言って、ハサミじゃなくて、このようなエネルギーデバイスを使って切っていく」
 「これは胆管。こっちに見えているのが門脈。胆管を切る。この人は癌ですから、ここまで癌があるかないかを調べるために胆管の断端を術中に病理の所見に出すんですね。この周りにあるのがリンパ腺です。肝門部胆管癌というのはこのへんに癌があるんだけれど、こういうところにリンパ節転移してくるんです。そういうのを一緒にきれいに剥ぎ取っていく手術なんだ」
 「これは左に門脈で、細い血管が走っているんだけれど、それを結さつして処理しているところです。細かい操作が必要とされます」
 「これが左の門脈でここに癌がある。だから、ここで血管が塞がれてしまう。これが肝臓です。こちら側にいく血流を遮断したので、肝臓の色が変わっているんですね。これから肝臓を切ります」
 「こちら側に向かっているのが肝静脈といわれる血管で、肝臓を切っていくときに脈管をきちんと確認しながら切っていくわけです」
 「今度は胆管を切るんです。これが胆管。糸で結んで切りますよ。胆汁がちょっと出てきます。やはり、ここに癌がないか、手術中に調べるんです」
 「腸から肝臓にいく血流なんだけれど、ここに癌があって塞がってしまっている。なので、この血管を切り取ります。血管を切って縫う。こうやって糸で縫うわけです。門脈という血管です。薄っぺらいんだけど、こうやって縫っていくんです。裁縫と一緒だよね(笑)。肝臓が取り出されます」
 「真ん中に白く見えているのが下大静脈といって足から心臓にいく太い血管です。これが右肝静脈。肝臓から下大静脈に入る、一番太い血管です。これで肝臓が取り出されました」。



 「どうだった?」
 「感想は」
 
 「リアル」「想像以上」「迫力ある」「ノーコメント」「医療ドラマの比じゃない」

 「手術のビデオを1回見たくらいでは、わからないと思うけれど、いまね、6割近くの肝臓を切ったんですよ。そこまで切っていいというのを知らなかったら手術できないわけです。もう一つは、こうやったらとれるということを知っているということです。最終的にこういう像になるというのを知っているということが重要だと思うんです。最後、肝臓を取り出したでしょう?あのときに、どういうふうになっているかを知っていれば、そこに近づけることができる」
 「そこまでやるためには、どうしても技術が必要です。技術を得るのに何年か必要です。最低でも10年かかります。道具に慣れないといけないし、さまざまなことを理解するのに時間がかかる」
 「外科医には、サイエンスとアートの両方がないとダメだと思います。それがあることで、このような仕事ができると思っています」。



 「もう一つ、みなさんにメッセージを贈るとしたら、《困難なことに挑戦する》のが重要だと思います。自分にとって困難なことって、いっぱいあると思うんだけれど、そこから逃げる人生ではだめだと思います。逃げたらあかんで、ということだと思います」
 「何かが来たら、この野郎って向かっていくくらいじゃないと、面白くないよ」「時間はすぐにたってしまいます。私自身の気持ちは富士高校にいた40年前と変わらないつもりでいるのだけれど、40年とか50年とかいう時間は、あっという間にたってしまう。そして、必ず人間は死ぬ。どうやって生きるんだと考えたときに、安易な方向に行かず困難なことにチャレンジしてほしいなと思います。そこから、新しいこと、新しい世界が開けると思うんです」。

 「これは私が、手術や講演をしに行った場所です。アジア、ヨーロッパ、南米などに行きました」



 「なぜ働くのか?を考えることも大事です。なぜ勉強するのかも一緒。なぜ働く? 生きていくため?死なないため?それはどういう意味? 大金持ちは働かない?」
 「これは、簡単じゃないね。でも、人間って、働かないと生きていけない動物だと思います。もし世の中で自分一人しかいなかったら、働くか?働かないと思う」
 「一つは、他人があって自分がいる。他人との関係で、自分自身がどう働くか。働き方によって、他人が自分を認めてくれる。そういうことが重要かな」 
 「いやいやながら働くのと、自分から進んで楽しんで働くのはどちらがいい?」
 「どうせ働くなら自分から進んでやりたい仕事をやるのがいいと思います」 
 「やりたくないことを仕事にされて、ずっとやれって言われたら、どうだろう。生きていけないね」

 「人生とは何かと問われて一言で言うのは難しいけれど、先ほど紹介した中山恒明先生は『人生とは経験である』と言いました。いろんなことにチャレンジして、いろんなことを経験してください。人生は、思いの外、短いです。みなさんの先には果てしない時間流れているように思うかもしれないけれど、そんなことはありません。ほんの一瞬です。まばたきしていると50年たってしまいます」
 「やりたいことを一生懸命やる、いろんなこと経験することが人生です。思い切り勉強し、思い切り遊び、クラブ活動もして、いろんなことを経験して、悔いのないようにやってください」。

 「このなかから医学の道に進む人がいれば歓迎します。いまは高齢化社会です。医療にすごく人材が必要と思うからです。このなかから医療の道に進んでくれる人が出てきてくれることを期待します」
(文/高校27回卒・相川浩之、写真/同・落合惠子)
 都立富士高校卒業から40年の節目を迎えた今年の4月18日(土)、第27回卒業生の同期会が開催されました。会場は六本木の泉ガーデン、東京の街を一望できる高層階のガラス張りの部屋に総勢130人が集まりました。
 受付では、「A G D」など自分の3年間のクラスが記載された名札と、式次第、3年間のクラス別名簿や校歌が書かれたパンフレットが渡されました。会場にはA~Iまで円卓が用意されており、まずは全員1年のクラスの席に着きました。



 幹事の入江一友さんの司会により会が始まります。倉島俊夫先生、石川勝教先生(高校7回卒)、谷畑充先生(同9回卒)の3人の恩師をお迎えし、当時の懐かしいお話、先生方の近況などを伺った後、再会を祝し皆で乾杯。会場の一角にはとりどりの料理が並べられ、好きな食べ物、飲み物をテーブルに運び、それをいただきながら懐かしい面々との話が弾みます。

 着席で行われた今回の同期会は、広く再会の喜びを分かち合うだけでなく、「クラスメイト」をテーマに趣向を凝らした進行が用意されていました。入学当時の1年のクラスで約1時間、次の1時間は2年時のクラス、最後はともに卒業を迎えた3年のクラスの席へ、合図のもと一斉に会場内を移動します。この粋な企画に、同じクラスで過ごした間柄ならではの話題に花を咲かせることができました。来年~再来年には還暦を迎える私達、当然、見かけは変わっているのに、話せば見える昔の面影に「変わってないね~」の言葉が聞こえてきます。
 出会った頃は多感な十代、こうして集うと彼方に忘れていた出来事が次々と鮮明に浮かびます。当時そんなことを考えていたのかとびっくりするような打ち明け話も披露され、その後の仕事のこと、家庭のこと、これからの夢、健康談義と尽きることなく、あっという間に時間は過ぎていきました。

 次に、若竹会の活動、100周年記念行事の準備について同期の落合惠子若竹会副会長より報告を受け、これからも皆で協力し同窓会活動を進めていくことを再確認。続いて、松木理梯さんのバイオリン演奏、林伸樹さん指揮のもと久しぶりの校歌を歌い上げ、にぎやかに全員で記念撮影をして、楽しかった3時間の会はお開きになりました。



 次回の同期会での再会の約束をして会場を後にしてからも、二次会へと向かういくつかのグループの姿が……まだまだ名残りはつきないのでした。
(高校27回卒理事 上田みどり、塚本早奈枝)
 東京・霞が関の中央合同庁舎第6号館A棟の19階にある検事総長室を訪ねると、美しい海外の山々の写真が壁に飾られていた。「人生においてはワークライフバランスが大切。妻と国内外の山々に登り続け、国内の百名山はもとより、海外も南極以外の全大陸の山々に足を運びました」と、今年7月、検事総長に就任したばかりの大野恒太郎さん(高校22回卒)がにこやかに語る。検察官の仕事は忙しいが、仕事に負けず劣らず、家族や趣味を大事にする大野さん。検察のトップに上り詰めても「富士高生らしさ」は失っていなかった。



 ――奥様の佳津子(かづこ)さんは、高校3年の時の同級生らしいですね。
 
 大野 クラスでは、しょっちゅう席替えがあったのですが、そのたびに彼女の隣に座りました(笑)。彼女とは、大学卒業直前に結婚しました。すぐに生計を立てなければいけないので、司法試験を受け、法律家を目指すことにしたのです。法律家になれば、世の中の役に立て、自分の人生も開けると思いました。

 ――法律が好きだったのですか。
 
 大野 子どものころから理屈っぽいところがあったので、法律を仕事にすることは自分に向いていると思って、東大法学部に入りました。でも、大学で法律を学んでいるときは、抽象的な話ばかりでつまらなかった。ところが、司法試験に合格し、司法修習生になると、法律が俄然、面白くなってきました。法律は具体的なケースに当てはめて、初めて生きてくるんです。こういう場合は、法的にどう解決するか――。いろいろな考え方が成り立ちます。それを1つひとつ考えるのが楽しかった。

 ――司法試験に合格すると、裁判官、検察官、弁護士のいずれにもなれますが、どうして検察官を選ばれたのですか。

 大野 そのときは検事は人気がなかったのですが、アクティブで面白そうだと思いました。検事が嫌になれば、いつでも弁護士になれるという気持ちもありました。

 ――なぜ人気がなかったのでしょうか。
 
 大野 当時は、「反権力」「自由業」という点で弁護士に人気がありました。検事は給料は安く、転勤も多く、大変なだけと思う人が多かったようです。



 ――検察官というと、今の若い人は、木村拓哉主演のテレビドラマ『HERO(ヒーロー)』を思い浮かべるのではないでしょうか。

 大野 昔、放送された『HERO(ヒーロー)』は見たことがあります。検事個人の力量や正義感、取り組み姿勢が事件の処理に影響するというのは、番組が描いている通りだと思います。
 事件は、被害者を含めた当事者にとって、一生の一大事ですから、検事の毎日は真剣勝負です。検事になってすでに40年近く。仕事はきつくて大変ですが、やりがいがあり、退屈したことはありません。
 様々の事件を通して、いろいろな職業、いろいろな境遇の人に接しました。
 拘置所の取調室で、夕焼けの西の空にそびえる富士山があまりに美しかったので、自分の父親くらいの年齢の被疑者に教えてあげました。二人でしばらく無言で眺めていると、彼が突然、泣き出しました。そんなこともある人間臭い仕事です。

 ――検察が対象にする事件は普通の刑事事件だけでなく、様々な法律違反の事件がありますから、大変ですね。

 大野 様々な分野を勉強しなければなりません。たとえば、特捜部にいたときは証券取引や金融取引も勉強しました。また、検察の仕事(捜査、公判)のほか、法務省では、法務行政や制度立法も担当しました。司法制度改革では、内閣司法制度改革推進本部事務局の次長を務め、十数本の法律を成立させました。その中で,裁判員制度の導入、法科大学院の創設、法テラス(日本司法支援センター)の設立などに携わりました。



 ――捜査、公判では、どんな事件に関わられたのですか。

 大野 東京地検特捜部時代には、東京佐川急便事件、金丸事件などに関わりました。

 ――自民党副総裁だった金丸信氏が東京佐川急便から5億円のヤミ献金を受け取りながら、政治資金規制法違反の罰金が20万円だったことに、不満を漏らす国民も多かったようですね。

 大野 それで検察庁の看板に黄色のペンキを投げつけられたこともありました。その後、脱税事件で金丸氏を逮捕し、その公判も担当しました。地検特捜部には丸4年、続いて金丸事件の公判に1年従事しましたが、特捜部時代は土日もまったくないほどの忙しさでした。



 ――検事総長になられて、どんなことに力を入れるお考えですか。

 大野 捜査公判の仕組みが大きく変わりつつあります。従来取り調べで自白を得た後、その自白を内容とする供述調書を裁判所に証拠として採用してもらうというやり方が長く続いてきましたが、こうしたやり方は日本だけのものでした。そして、時代が変わってきたことにより、もはや、そのようなやり方は通じなくなってきています。したがって、これからは自白よりも客観証拠を重視する流れを強めていかざるを得ません。
 検察・警察の密室での取り調べが問題となり、取り調べの録音・録画(可視化)の対象範囲を拡大しています。そうすることになった根本の原因は、何よりも、取り調べや供述調書に大幅に依存した捜査に無理が生じていることにあると思います。だから,自白以外で証拠を集める方法も考えなければなりません。
 法制審議会(法相の諮問機関)が司法取引の導入などを含む刑事司法制度の改革案を答申しました。
 司法取引というのは、一定の企業犯罪や暴力団が関係することの多い薬物犯罪等において,実行犯に、「真実を話せば、起訴をしない、あるいは求刑を軽くする」というような約束をして共犯について正直に話をさせ、背後にいる首謀者に迫るやり方で、諸外国においては広く採用されている制度です。独占禁止法の改正で導入された課徴金減免制度(リーニエンシー=談合やカルテルを最初に申告した会社は課徴金が全額免除され、刑事告発も事実上免れるという制度)を導入し、成果を挙げていますが、これとも通じるところがあります。かつての企業の犯罪では、上司の命令には絶対に逆らわない社員ばかりでしたが、いまはコンプライアンスに反することをすれば会社はつぶれると考える社員も多くなっています。犯罪を明らかにすることで、会社を救おうという考えになれば、取引に応じる社員も出てくるでしょう。
 「取引」というと印象は悪いのですが、正直に話をしたものが損をしないようにする制度だとも言え,事件の全容を解明したり、世の中をよくするといった正当な目的の実現のためには司法取引も一つの選択肢になると思います。
 
 ――裁判員制度などの司法制度改革の次に、検察改革に取り組まれようとしているのですね。

 大野 未来志向の検察改革が必要です。これまでのやり方でも無理をすれば数年は持つかもしれないですが、20~30年後までは絶対に持たない。裁判員制度の導入時は法務省、裁判所にも反対論が多かったのですが、司法制度改革を進めた結果、今や裁判員制度は良い制度として定着しつつあります。検察改革も屈せずに進めたいですね。



 ――これから法曹界を志す、高校の後輩たちにメッセージはありますか。

 大野 どんな仕事でも組織の論理と自己の信念の折り合いをどうつけるかが問題になりますが、法曹界は、基本的に、正論、合理性が支配する世界です。
 民主国家において法秩序は市民生活や社会・経済の基盤です。司法制度改革により「社会生活における医師」としての法曹の活動領域は今後、ますます拡大し、国際化も進んでいくと思います。
 法律を学んで社会の役に立ちたいという志のある人は、臆することなく、法曹界を目指して、能力や個性を発揮してもらいたい。
 しっかり法律を勉強するのは当たり前ですが、人間相手の仕事ですから、視野が狭く面白みのない人は伸びないと思います。法律以外にも、いろいろなことにチャレンジしてほしいです。

 ――法曹界で活躍されている富士高校OB、OGは多いのですか。
 
 大野 検察だけでなく、裁判官、弁護士、法学の研究者として活躍されている人がかなり多いと思います。例えば、今の高裁長官や法務省局長の中にも富士高のOBがいますよ。
(インタビュー・構成/高校27回卒・相川浩之)


大野 恒太郎 (おおの・こうたろう)氏
1952年4月1日東京都生まれ。1970年都立富士高校卒業。1974年東京大学法学部卒業、司法修習生。1976年検事任官、東京地方検察庁検事。2001年内閣官房司法制度改革推進本部事務局次長、2004年宇都宮地方検察庁検事正、2005年最高検察庁総務部長、2007年法務省刑事局長、2009年法務事務次官、2011年仙台高等検察庁検事長。2012年東京高等検察庁検事長等を経て、2014年7月18日、検事総長。
 「横尾英子日本画展~漱ぐ」(11月1日~16日、東京・杉並の葉月ホールハウス)のオープニングイベントで、横尾英子さん(高校31回卒)と三菱一号館美術館館長・美術史家の高橋明也さん(高校24回卒)の対談が実現した。テーマは「ようこそ、高橋明也先輩!~同窓生として語りたい、絵画人生へのいきさつと覚悟」。菅野朝子さんのヴァイオリン・ソロの後、二人は、絵画の道を志したきっかけから、美術論まで、幅広く語り合った。





横尾 今日は3連休の初日にもかかわらず、お集まりいただき、ありがとうございました。

高橋 私は、住まいが、たまたま、ここから歩いて5分ぐらいのところなので、すごく近かったです(笑)。
 前に私が都立富士高校の同窓会「若竹会」の講演会でお話ししたのが、今日のイベントのきっかけなんですよね。

横尾 私は高橋先輩のお話は高校生時代から美術の先生に伺っていてお名前は存じていたのですが、先日、講演会で先輩のお話を伺って、入るべくしてこの世界に入られたのかなと思いました。今日は私の個展にわざわざ来ていただき光栄なのですが、そのあたりからお話を始めていただけると−−。



高橋 たまたま、こういう仕事をずっとやっていますけれども、高校時代は自分が将来何をやるのかは、よくわかっていなかったと思います。
 高校時代は新宿も近く、よく授業をサボって名画座やATG(日本アート・シアター・ギルド)などを見に行ったりして、映画は面白いと思いましたし、土方巽の舞踏や寺山修司、唐十郎の芝居を見て感動したりしていましたので、必ずしも美術館業界に足を踏み入れると確信していたわけではありませんでした。偶然と必然が重なって、気がついてみれば、美術館に何十年も関わってきてしまいました。

横尾 先日、同窓会の講演会で高橋先輩が小学校6年生のころにお父様と一緒にフランスに行かれていたというお話を聴きました。そのころは、日本人学校がなくルーヴル美術館にまるで遊び場のように通っていて、ルーブル美術館のどこに何があるのかは日本人で一番よく知っていたというお話を伺い、そういう人が世の中にいるんだなあと思いました。
 私は家に、画集などもなく、絵といえば、教科書に出てくるような絵しか周りになくて、本物をみると、こんなに大きいんだとか、意外に小さかったとかいった感じで、驚きの連続でした。そうやってずっと絵を見てきました。
 子供のころから、本物の絵をご覧になるというのはどういう感じだったのでしょう。

高橋 ルーヴルに毎週毎週行って、暗記するくらいコレクションを見ていました。そういうのが今の職業に就くきっかけと公式には言っていますけれど、下地があるんですよね。
 僕は漫画少年でした。あのころは漫画雑誌もろくになかったころですが、散髪に行くと、待合室で『冒険王』を読んだりしていました。もっと、前ですと、
貸本屋の棚の左から右まで全部読んだという記憶があります。
 あのころって、漫画でいろいろなジャンルがあって、世界名作文学を漫画で読めるような全集もあったし、科学的なことを全部漫画で読ませるものもありました。大学くらいまでの知識は、小学校の前半ぐらいに漫画でインプットしてしまいました。
 ですから、イメージから入るというインプットの仕方は慣れていましたね。



 父親が早稲田の教師をしていて、パリ大学との交流で、たまたまパリに1年いたものだから、イメージや造形から入ることが加速した感じでした。
 そのころはまだパリに日本人学校がなく、1年間どこにも行かず遊んでいました。当初はフランス語ができないから、視覚情報だけがどんどんはいってくる感じでした。
 美術品だけでなく建築を見るのもすごく好きで、そういうことを毎日していたので、それが蓄積されたのでしょうね。

横尾 すごいことですよね。多感な時期に−−。

高橋 得難い特殊経験だったと思います。船で80日間往復して、アジアの国は全部見ました。60年代半ばだと、まだ戦後のにおいが残っていて、マニラなどは「日本人は憎まれているから危険」と言われ、船から降りられなかった。
 アジアの国々はまだ貧しく、悲惨なさまを山のように見てしまったので、楽しく、美しいものを見るのが救いでした。紅海に入ってシナイ山を見たり、エジプトのピラミッドを見たりして、そこでは、人種とかは関係なしに盛り上がっていました。
 そういう一瞬があちこちであって、そういう(人種とかに関係なく皆が楽しめるものを見せる)仕事をしたいなと思ったのが美術館の世界に入るきっかけでした。

横尾 小さいころの思いというのは、何かをやるきっかけになりますね。

高橋 ヨーロッパに着くと、山のように美術館、美術品があって、そういうものをリスペクトして見ているという落ち着いた文化がある。
 何か、「永遠に残るかもしれない」という幻想をかき立てるものをやりたいと思いました。
 エジプトはナセル大統領のころで、アスワンハイダムの建設に伴って、ラムセス2世の巨像を移転するなどのすごいプロジェクトをやっていまして、こういう仕事をやりたいなとも思いました。もしかしたらユネスコの仕事をしていたかもしれなかったですね。

横尾 そういうお話を伺って、私の子供時代を振り返ると、いま絵を描いているというのが信じられないくらい普通の子供でしたね。
 ただ、子供のころ、きれいな形をみると真似したくなるというのはありました。風神雷神図の流れが格好いいと思うと、同じような流れを表現した違う絵を描くとか、図鑑に花の絵があって、そのS字のカーブがとても美しいと、それをすぐに真似して書いていたりしました。
 中学に入って、「本物を見に行きなさい」という夏休みの宿題が出て、西洋美術館に行きました。
 クールベの「波」の本物をみたら、すごい迫力で、「こんなにかっこいい絵が描ける人がいるんだ」と思いました。その臨場感、リアル感、力強さは、まだ知らない世界でした。モネの巨大な睡蓮の絵も「どうやって描いたのだろう」と思いました。(高橋さんが学芸員をされた)西洋美術館には、本当にお世話になりました。
 今の自分を育ててくれたのは、そうした美術館の絵だったのかなと思います。

高橋 なんで日本画を選んだのですか?

横尾 私、絵だったらなんでもよかったんです。工作も大好きなので、作るのでもよかったんです。落ち着きのない子で、こちょこちょ絵を描いていました。
 受験のときは美術の方向に行きたいと思っていたんですが、油絵を高校で初めて体験して苦手だったんです。絵の具がべたべたして、石鹸で手を洗っても落ちないのと、思うように描けない「不自由さ加減」があったので、まず、選択の中から油絵が落ちました。
 受験科目を見たら、水彩絵の具でいいというので日本画を選んだのですが、それまで日本画を描いたことは全くなく、「日本画って何だろう」と受験するときに、改めて調べてみて、「教科書にのっていたあれが日本画なんだ」とわかったという感じなんです。大学に入ってから好きなことをやろうという軽いノリでした(笑)。

高橋 あのころって、たぶん、みな洋画が好きだったんですよ。
 おととい、昔からよく知っている(直木賞作家の)篠田節子さんと対談をしたのですが、篠田さんは中学・高校生のころは美術部だったらしいんですよ。あのころだとギュスターヴ・モローがインパクトがあって、油絵はどんどん描きこめるし、面白かったと−−。
 日本画は難しくないですか。にかわを溶いて−−。

横尾 学校に入って、難しいのだなと思いました。

高橋 で、模写ばかりやらされるでしょう。
 
横尾 模写ばかりでもないのですが、1年のとき1枚、2年のとき1枚と描いて、模写が苦手なのに懲りもせず大学院は通称、“模写科”(古典研究科)に入りました。

高橋 それが芸大の日本画の特色かなと思います。

横尾 日本画の絵の具を扱う技術を学ぶのには、模写がいいんです。
 日本画の材料は紙ですから、紙に描いて裏にもう一枚紙を貼って、強度を高める裏打ちの技術などもあります。表具をやったり、金箔、銀箔を貼ったり、基本的な要素を学べるんですね。

高橋 それができるから、面白い絵が描けるかというとそれは別問題なんですけれど、何かステップアップしようとするときには後々役に立つ重要な技術なんですね。
 
横尾 役に立ったんだとは思いますが、自覚はないですね。

高橋 でも、横尾さんの作品を見ていると、すごく基礎がきちっとしているなと思います。テクニックがあります。

横尾 それは模写のせいではないです(笑)。

高橋 日本画の感覚について考えてみたいのですが、日本人って、あらゆる意味でパースペクティヴがすごく乏しい国民性だと思うんです。脳の知覚の方法になにか理由があって、空間を奥行きを持って認識しないのではないかと、自分を含めて思うんです。

横尾 私も対談に先立ってのバイオリンの演奏を聴いて、人を包み込む奥行き感は西洋画のものだなという気がしました。
 触れてきたものが違うのでしょうか。
 包み込むような立体的な存在感、力強さを油絵に感じます。
 子供のころ、西洋画のそういうところに魅力を感じたのだと思います。

高橋 西洋音楽ってバイオリンやピアノなどの個人楽器があって、オーケストレーションの世界があって、さらにパイプオルガンがフーガなどを奏でる重厚な世界がある。
 美術でもそうで、プライベートな世界からパブリックな世界まで、いろいろある。
 西洋のアートはギリシャ、ローマ以降、社会的なコミュニケーションを担ってきたんですよね。
 権威者、為政者、お金持ち、市民共同体…そういうものの権威とかメッセージを具現するためのツールなんです。すべてのものが視覚化され、造形化された。街の真ん中にミケランジェロの裸の像が置かれたりする。日本人から見たら少し変だと思うんですよ。けれども、そういうことが自然に歴史的に行われてきた。そういうあり方が日本における美術とは違うという気がします。

横尾 日本の絵は感情とか心の内面性の表現が多いと思うのですが、西洋のアートは力強い具現化したものという存在感を感じます。

高橋 社会的なコミュニケーションツールという性格が19世紀ごろに限界までいってしまって、それの反動というか、プライベートなところまで戻すために印象派の人たちなどが、自分たち個人の関係性のなかで見る作品に引き戻している。その過程では、日本の美術にすごく影響を受けたりしているんですね。
 そういう意味では印象派が日本と親和性があり、日本人も大好きなのはよくわかります。どこか共通したものがある。 
 印象派の画家の作品を見ていると、意識・無意識にかかわらず、「日本人になろう」としてフラットに描いていますよね。

横尾 日本も下村観山とか菱田春草の時代になると、奥行きを意識して描いているのだけれども、やはりとても日本画的で、「平ら」ですよね。
 パースペクティヴの表現を目指しているのだけれど違うものになっているのは面白いです。



高橋 最近、ちまたでは、日本美術の展覧会が盛況なんですが、これは、自分たちの本来もっている感覚に近いものに回帰しようという自然な社会傾向なのかなと思うんです。

横尾 確かに若冲などは若い人にも支持されていますね。とくに若冲などの傾向の画家は、いまの人の感覚に合うのでしょうね。
 私は若冲を大学で初めて見て、気持ち悪い絵と思ったんです。
 でも何年か前に相国寺で33幅の『若冲動植綵絵』(どうしょくさいえ)を円形に飾った展覧会があって、その絵を見たのですが、涙が出るほど感動してしまいました。「この世界が描きたかったのか」ということがわかりました。大人になって、「素晴らしい絵を描く人だ」「人気が出るわけだな」と感じるようになりました。
 この絵は親と自分の永代供養のために描いたようですが、こんなに人を感動させる作品を「一生に一度でいいから描いてみたい」と思います。

高橋 年齢を重ねて(失礼!)、その境地がわかってきたということなのでしょうか?

横尾 1枚の絵じゃ理解できなかったですね。
気持ち悪いほど、全部の画面を使って同じように描いていて、空間もへったくれもない。妖怪を描いているような感覚の絵というイメージだったんです。
でも、33幅が揃った絵を見て、そんなことからは突き抜けているなと思いました。

高橋 若冲のブームって突然来たようにも見えるけれども何年か前に、ワシントンのナショナルギャラリーでも若冲展を開催したんですよ。そうしたら、驚くほどの人が来た。日本の画家でこんなに人が入るとは想像もしていなくて、ナショナルギャラリーの関係者も驚いていました。
アメリカ人でもそんなに面白いと思ったのだから、時代性があるのでしょうね。

横尾 大学生というともう30年くらい前なのですが、そのころに、辻惟雄(のぶお)先生が、若冲とか曾我蕭白を紹介されていました。その時はなんとも思わなかったのですが、いまはすごい勢いですね。

高橋 横尾さんは日本画家はどなたが好きなんですか。

横尾 円山応挙、菱田春草、下村観山、橋本雅邦らが好きですね。古い人が多いですかね。

高橋 ちょうどいま、春草展が人気ですよね。
 でも、画家はあまりマーケティングとかばかり考えてもしかたないですからね(笑)。

横尾 私たちは絵を描いて、「たった一人がわかってくれればいい」のですが、美術館はそうはいかないですね。

高橋 僕の仕事は「10人がわかってくれればそれでいい」というわけにはいかないので、マーケティングは必要です。収支だけの話ではなくて、どれだけの人、マジョリティが何を欲しているか、マイノリティーの人が何を欲しているのかというのは、ある程度考えていかないと。自分はこれがいいと思ってやっていても1日10人しか見に来ないというのではだめですから。

横尾 ひとことでいうと、高橋先輩はどんな絵が好きですか。
 私は、見て、「しみるなあ〜」と思う絵です。
 感情論ですが。

高橋 僕の場合は、展覧会で絵を見て、「この絵が寝室にあったらいいな」と思うか思わないかですよね、最終的には。
 1対1で好きになれるかというところで、「好きな絵」を選択しています。
 マーケティングベースとは関係ない世界ですが、それがないと、どんなに大向こうをうならせる展覧会でも嫌なんですよね。

横尾 やはりそうですよね。絵を集める人、企画する人が、心から素敵と思っていないと伝わらないですよね。

高橋 それは、展覧会みたいなイベントをやっている者が持つべきささやかな良心なんだと思います。

横尾 私の子供のころは、西洋絵画の何を見ても珍しかったし、素敵に見えたんですが、いまの時代の若い人とか、絵をあまりご覧にならない人向けに企画するのは難しくないですか。

高橋 昔に比べれば、なんでも情報として引っ張れる時代なんですけれども、だからといって子供たちとか若い人たちが本当の意味での情報を得ているのかというと、どうもそうではないと日々実感するところです。
 何でもかんでもスマホから引っ張れるのだけれども実は何も見ていないのと同じかもしれない。
 バーチャルな情報ばかりが先に入ってきている。

横尾 私たちがいいなと思っていた感じ、もっと、ふくよかな感じがあるといいのでしょうね。

高橋 みなディスプレーの中で、平準化されたイメージで見ている。
材質感もないのに、ひたすらディスプレーで絵を見て、見た気になっている。
 自分自身も混雑する展覧会ほとんどいかず、パソコンで見て、いいかなという気になっています。あまりよくないですね。
 この間ヴァロットン展ではスマホのアプリを作ったのですが人気がありました。家にいながらにして展示されているもの見られる。私の付けた解説も音声で流れるというスグレモノです。



横尾 高橋先輩の解説は面白いですね。例えば、『芸術新潮』で特集された2010年の「オルセーの美術館展」のコメント一つひとつが面白かったです。
 その一つが、アングルの『泉』。この時代は、リアルな女の人を描かなかった時代で、神格化されたヌードを描くのが常識的だったのですが、アングルの『泉』の女性は顔が可愛らしくて、教室にいてもおかしくないような顔なんです。
 その顔が可愛くて、『泉』って好きだったんですが、髙橋さんのコメントを読むと、今の時代でいうと、アキバ系の女の子のような感覚で見たのではないか、と書いてありました。いまに当てはめると、そういう解釈なのか、と思いました。
 1つひとつの絵の解説が、いまでいうとこんな感じというのがわかりやすく、印象的でした。

高橋 「グラビアヌード系」ですよね。本当の意味でのリアルな女性のヌードではない。
 だから、表現として、お目こぼしになっていたわけですよね。検閲にもかからず。リアルじゃないから。
 リアルかどうかというのは非常に大きな問題ですが−−。

横尾 リアルという感覚もその時代、時代で違いますよね。

高橋 ある種の時代の「リアリティー」というものがあって、それをつかんだ作家が残っていくんだと思います。

横尾 日本の浮世絵などもリアリティーの問題に関わってくるのでしょうかね。

高橋 浮世絵の作家のなかでもリアルな感覚を100%つかんでいる人といない人いる。そこが作家を分けるのだと思います。
 北斎なんかはすごいですね。

横尾 理屈抜きで、絵の表情の強さ、絵の動きの強さを感じます。

高橋 北斎は肉筆画が結構残っており、本当にすごい。臨場感があるというか−−―。

横尾 奥行きのない線だけの臨場感は、なんとも言えない迫力ですよね。

高橋 西洋の作家でも、だれでもがパースペクティヴ、空間感覚があるか、というと、作家によって違うなというのが最近、わかってきました。
 ボナールとかドニとかヴュイヤール、ヴァロットンみたいな19世紀末のナビ派の作家だと、この人たちは、まるで日本人みたいだと思うことも多くて、デッサンなどを見るとかなり平面的です。
 洋の東西を問わず視覚的な認識度はみんな違うんだなというのが最近、見えてきました。

横尾 昔、気がつかなかったけれど、いま気がつくことって、たくさんありますね。
 先日、東京国立博物館で、上村松園の「焔(ほのお)」を見ました。源氏物語に登場する六条御息所が生霊になって葵の上を呪い殺してしまうというほど強い嫉妬心を持つ姿を描いたものです。昔は、綺麗な絵の中に一枚だけ嫉妬に燃えた女性を描いた絵があるな、上村松園も変わった絵を描くんだな、といった理解だったのですが、先日見たら、すごく感動したんです。
 若いころは何とも思わなかったのですが、この絵を見て、源氏に対する恨みつらみというより、ものすごくか弱い、人間のどうにもならない、行き所のない悲しみを感じました。
 絵にはかなさを感じたんです。松園って偉大な作家だったのだなというのを改めて感じました。
 若冲を久しぶりに見たときのように、「ああ、こんないい絵が描けたらいいな」と思いました。「女の人がみた女」もいいかなあと感じました。

高橋 たぶん、男の作家だと、最終的に女を描くのは難しいと思うんですよね。でも、男でもたまにできる人がいて、『8人の女たち』『スイミング・プール』などをつくった、フランソワ・オゾンなんていうフランス人の映画監督は女性の心理が驚くほどよくわかっていました。『ふたりの五つの分かれ道』なんて、すごいですよ。とても若いのに不思議な才能、共感力です。



 他方で、僕なんかは、最近、年を取ってきたのか、後半生の仕事というか、晩年がどうなるのかなというのがとても気になります。
 いま、三菱一号館美術館で『ミレー展』をやっていますが、ミレーが一番いいなと思うのは、ずっと制作を続けてきて、晩年になるにしたがって、絵が軽く、明るくなってきているんですね。自由になって、開放感がある。死ぬ前の年に描いたものなどはすごく開放感がある。そういうのには、あこがれますね。
 肉体的には衰えていくんだけれども、精神が自由になっていくのはすごくいいなと思います。

横尾 そう伺うと、最近、見ていなかった西洋絵画をもう一度、見てみようかと思いますね。

高橋 ミレーというと、一見、古い教養主義の感じがするのだけれど、今回みたいな機会に改めてよく見てみると、とてもいい作家だなと思います。

横尾 改めて見るって大事ですね。

高橋 それは僕だけの感想ではなくて、この展覧会を見たいろんな人にそう言われます。見る時期も大事ですね。同じものを見ても感じ方が違う。

横尾 西洋絵画は格好いいと思っていますけれど、最近、見なくなっていました。
 ぐっと入ってくるのは日本画に多かったかもしれません。

高橋 ヨーロッパで色々な展覧会を見ると、自分たちの知っているものはまだまだ一部という感じがいつもあります。毎回、結構斬新なものを見せられるので。
 自分が持つ限られた情報で、わかった気になるのは危険です。

横尾 日本は制作される絵画の数が少ないのでしょうか?

高橋 絵画の表現の幅が比較的狭い、のかもしれませんね。深い感じはありますが――。

横尾 日本画の歴史は、桃山時代の障壁画くらいからですから。

高橋 ラスコーとかアルタミラの壁画を見ると、圧倒されますね。
作家ならば、一度はああいうものを見た方が良いと、老婆心ながら、言いたいですね。
 人間の歴史で、テクノロジーはものすごく進歩しているけれど、感情とか感受性の部分は、ほとんど変わってないじゃないですか。むしろ、後退している気もする。
 多分、アートの世界は石器時代から変わっていないんですよ。
 表現の形態や技術的なものが変化したけで、すでに大昔に表現としてなされてしまった部分はすごくある。

横尾 やはり人間が思いを込めてつくったものに感動するんですよね。

高橋 テクノロジーで進歩していると思っている自分たちがいるのだけれど、原点に引き戻されるじゃないですか。
 何か忘れたことを思い出させる。わからないこと予見させる。そうしたものがアートの力なんでしょうね。
 そう考えると絵を描く人ってクレージーじゃないとできないと思います。
 横尾さんは、おみかけしたところ、大丈夫ですよ(笑)。
 日常生活は普通でいいんだけれど、どこかでクレージーな部分がないと、初源的なものは呼び戻せない。

横尾 絵を描いていると、3日くらい寝ないということがいまだにありますね。4日目には寝る努力をするんですが、描いていると寝られなくなるんです。
 それはクレージーといえばクレージーですね。だんだん年とともにひどくなっているような気がします。
 これからですよ、見ててください(笑)。
 先輩も、長生きしてくれないとだめですよ(笑)。

◇     ◇     ◇     ◇     ◇     ◇     ◇ 
     
 葉月ホールハウスでは、7月に池田真弓さん(高校32回卒)の個展を開催。11月24日から12月7日までは、水墨画の海野次郎(高校23回卒)さんの個展も開く。



 富士高卒業生たちの活躍と出会いの場を提供してくれる葉月ホールハウスを運営するのも高校27回卒の岩河悦子さんだ。今回の対談をきっかけに、富士高卒業生たちのクリエイティブな交流の輪が葉月ホールハウスを拠点にさらに広がっていくのではないか、という気がした。
(高校27回卒・相川浩之)